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この手の言説はいつも片側からの視点からしか見ていないので、底が浅い。
「社会に恨みを持ちながら死のうとしている人」に対して「死にたいなら一人で死ぬべき」とコメントしたとして、
正な作用は「誰かを道ずれにして死のうと思っていたが、一人で死ぬことにした」
負な作用は「一人で死のうと思っていたが、誰かを道ずれにして死ぬことにした」
であろう。
コメントされたところで方針が変わらないのなら、コメントを控える理由はないのだから。
さて、このコメントを控えるべきということは、このコメントにより正な作用よりも非な作用の方が多いと考えられるということである。
こういったコメントがネットに多いということは、この2つの反応を比較して、体感的には正な作用を引き出すことが多いと感じている人が多いということであろう。
一方でこの人は、1件あるかもしれない負な作用を恐れて、それよりも多い可能性のある正な作用を考慮せず、コメントをやめるべきと述べているように見受けられる。
非常に視野の狭いことである。
いくら社会的に追い込まれていても、一人で死のうと思っている人間に、誰かを道ずれにして死のうと決心させるというのは、説得する方される方ともに相当な精神エネルギーが必要であろう。
なぜなら、一人で死ぬのに対して、誰かを道ずれにするというのは必要な精神エネルギーが格段に大きいと思われるため、決心させるには相応の精神エネルギーを充填する必要があるからだ。
一方で、逆の決心の場合はエネルギー準位が低いため、説得することは比較的容易であると思われる。
コメントをやめるべきと述べるからには、そのコメントにより正な作用よりも負な作用を引き出すことが多いと納得させる必要がある。